『山小屋建立物語』

PART 1
PART 2
終わりに

S38 植木 俊彦

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PART 1

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 スキー部合宿所もいよいよ今夏に建設されようとしております。最初に話があってから相当の年月も経て、現役の諸君はほとんど当初の経過を知らないと思いますので、ここに記録としてまとめてみようと思います。
 東急グループは、八方栂池の周辺をかなり昔から、スキーを中心として開発してきました。八方尾根の方はともかくとして、栂池の方はスキー客が少なく(ただし五年前の話)、ペイしない模様でした。栂池分譲地を東急で売り出しましたが、個人別荘にすると、来るお客の数は知れているのでその一部を大学に寄付して寮を建ててもらい、学生に来てもらい大いにリフトに乗ってもらおうという訳で、東大の運動会にも寄付するという話が今から五年前にありました。
 運動会では当時下賀茂などに寮を新築するので金銭的余裕がなく一応断るつもりのようでした。私は当時スキー部を運動会に入れてもらう為に、よく運動会に出入りしていたので、ある折り東急のその話を山崎学生課長から聞きスキー部単独でやるなら紹介してやろうというので、部会を開き一応土地だけ借りることにしたわけです。その時も余りはっきりした確信があるわけではなかったのですが、専門が建築なので建物のことは少しはわかると言うことと土地は借りておいて損はないだろうという(何しろ地代不要なのです)二つのアヤフヤな理由で強引に部会でも押し切ったわけです。契約期間は20年間で契約してから三年以内に30名収容の寮を建設するという条件がついております。現在は借地ですが、スキー部が運動会に加入した折りには土地を寄付するという一項も付いておるので、運動会に加入した現在は、土地はいつでも我々の所有とする事が出来るのです。
 冷静になって考えてみればどんな小さな建物であっても、まず300万円はかかるであろうし、スキー部のアルバイトによる収入はそれまでの実績を見ても、年間50万円(この中には個人で負担している部分も多い)位であろうし、OBの少ない当部ではOBの寄付もあてにならず、200万円集めるのが精一杯であろうと気が重くなる毎日でした。十分な見通しもないのに強行した点については我々より上の年代のOBからは随分批判されましたが、まったく若気のいたりというか、無知というか救いようがない感じがする思いでありました。お金の方は一向に貯まらず、年月の方は刻々と過ぎてゆき、「これじゃー見通し暗い。何とか局面だけは変えなくちゃー」とまるで日本帝国陸軍のナントカ作戦の如く、昭和43年の夏休み現地の地ならしに出かけました。土でもいじれば少しは山小屋の感じをつかめるのではないかということで、皆懸命に藪に飛び込み約200坪の半分ジャングルのような敷地をきれいにならし、建物の位置を縄でセットすると、「ヤローゼ!」という気分がわいてきて、陰謀は成功したようでした。この作業中、多くの人がウルシにかぶれたり、蚊に悩まされたり、いやその作業のつらいことアウシュビッツとおそれられた様子は、前部誌岡本君の文章をとくと読まれたい。いよいよ建設すべき昭和44年は闘争で山小屋のフンイキは全然なく、一年間建設を延期してもらいました。時は流れ(この所はあっさりと)、昭和45年は盛夏、穂坂前部長は大学を辞められ、茅部長に代わり、私も大学院を辞めて、事務所を作ったので大学の時のように動くことが出来ず、設計と見積もりのみしかお手伝い出来なくなりましたが、20人前後をまず収容する一期工事分を設計し、施工は野口建設(長野県大町市)に依頼、307万円で上がる予定です。茅先生の御紹介により寄付も見込めるので、8月20日には発注し、9月1日から着工し、今シーズンには使用に耐える状態にしたいと思います。
 せっかくアルバイトをしたり、寄付に応じてくれた人でも、学窓を去ればほとんど利用する機会もないのが実状でしょうが、皆自分の愛したスキー部のため、実に乏しきサイフをはたいてくれたのだと思います。皆さん感謝しましょう!山小屋が出来たら、OB、現役の対抗戦だけには是非出かけたいという先輩が多いのです。 最後にスキー部合宿所に関する書類は、OBで弁護士の永盛君の強力により作製し、現在私が責任をもって保管していることを付記しておきます。
(部誌より)
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PART 2

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 念願のロッジもついに竣工し、栂池高原に建つ姿を見ると、感無量である。ここに今までのメモをまとめ、建設の過程を記録しておきたいと思う(以下メモと注釈)。

昭和45年5月××日

 −新宿「王城」にて、第一回会議を行う。席上計画を中止したいという意見も出る。OB会の100万円と、積立金若干のみが頼みの綱であったが、強引にも中止論は押し潰され、とにかく200万円台の内容の図面を作ることになる。−
 私にとってこのような設計は初めてであった。物を作るのにカネがほとんど無い。専門的にはプロセスランニングというカッコイイのがあるけど、これとてある程度資金のメドがある場合のみ有効なのだ。新宿は「王城」に集まった者は約十名、中止派をもって鳴るは、吉村、中尾両君であった。このような会議では論議は堂々めぐり、最後には、「資金不足の場合は、ここに集まった者で調達する覚悟があるのですね」(吉村君)といういささか酷な質問に皆不思議にもコックリとうなずく。両君も計画推進派に渋々転向した結果、計画遂行と決定された(この辺りかなり無責任ではあった)。かくして私には200万円台で、30名収容の山小屋を作れというミケランジェロもびっくりする課題が与えられたのであった。

6月××日

 −今日も製図台に向かう。出るは溜息ばかりなり。結論として極限まで小さくするしか手はない。−
 極限に近い物を作ろうとすると人間結構アイディアは湧いてくる。「恐怖の六段ベッド」「暖房と炊事は一緒」「風呂なぞなくとも死なない」「トイレは東海大のを借りる」「スキーは外に置いてもコワレない」。等々今だから笑い話であるが、不幸にして実現したものも一部ある。それでも予算オーバーになり、「現地の建設流通事情を調べるため、一応このプランで見積もらせるよ」、なぞとプロらしからぬ態度で、こっそりと規模だけを小さくして(現在の半分の大きさを考えられたい)東急の紹介で、大町のS組に見積もりを依頼した。一週間して出てきたのが驚くべし、450万円であった。しかし天は我らを見捨て給わず、隣地の東海大ロッヂ新館を坪当たり十万円で見積もっている野口建設という業者のあることを教えて下さったのである。さっそく見積もりを依頼したのは言うまでもなかった。

7月××日

 −野口建設より、見積もりが提出さる。三百七万円也。これで一歩実現に近づく。−
 この日のメモは多少字が踊っている。八万円オーバーに抑えた喜びが感じられる。しかし冷静に考えれば、このプランではせいぜい15名程度しか収容できないし、設備的にも問題にならなかった。つまりこの喜びはヌカ喜びなのであった。まあ野口建設という安く作ってくれる業者に会えたことだけが幸であった。

7月15日

 −茅先生と会談。先生開口一番、これじゃあ問題にならない。とにかく寄付を集めなければ、ナントカするよと心強いお言葉。この日をもって、歴史は大きく転回する。−
 新スキー部長の茅先生と会談、私は海水浴の帰り、その足で大学を訪れた。先生我らの最終決意に大いに感じられたのか、又はこの内容ではあまりにも惨めと思われたのか、とにかく寄付集めの陣頭に立って下さることになった。今日あるはまさにこの日のおかげである。我々もさっそく寄付集めのための体制を固めた。

7月××日

 −細井宅をロッジ建設計画推進本部に決め遅ればせながらスキー部ロッジ資金募金委員会と、スキー部ロッジ建設実行委員会を結成する。−
 ここでロッジ建設計画を推進する正式団体がやっと結成された。まず資金調達に関しては、茅先生、運動会の諸先生、及び東雪会の阿部氏を中心にロッジ資金募金委員会が作られた。会長は大来佐武郎にお願いした。この委員会によりほとんど大部分の建設資金が賄われたのであるが、この間の事情は編集者から他の人に執筆が依頼されているとのことで省略。当計画推進の実務を司るロッジ建設委員会の委員とその役割を紹介する。
 小林(OBマネージャー、後日小林木工所々長となる)、細井(資金班、後日輸送隊々長となる)、野村(会計)、中尾(資金担当)、吉村(資金担当)、遠山(総マネージャー、後日ロッジ管理人)、植木(お抱え大工頭)。

8月××日

 −各委員の努力実り、寄付金の成果着々と上がる。さっそく新計画案を作ることになったが、計画案の内容にはかなり注文が出る。−
 八月上旬の委員会は、ほとんど連日戦果なし、集まるのさえ憂鬱な毎日が続いたが、後半努力のかいあり、350万円台の声を聞くようになった。こうなると人間欲の出て来るもので、計画案の手直しが行われた。直ちに収容人数を25名とする現案が作られた。小林氏はさっそく「これちっとも南生かした設計じゃないですね。それに暖房の効率も悪いし吹き抜けを作ったら」なぞと根元的なるクレームをつけてきた。しかしまあ全員が南を向くブロイラー小屋みたいのを作れないので、昼間の食堂だけを最優先的に南に向けるのがまあ妥当であろう事と、合宿所で一番大切なのはゆっくりと寝ることが出来ることなので、無理をしてもベッド式としたいので、二階の暖房は残念ながら後から取り付けることにするので、お引き取り願った。全体のプランはほぼ現在と同じであるが、この予算の中で最大の論争点となったのは風呂とトイレであった。
 風呂桶は部員の家庭のお古を寄付してもらうことになっていたが、それは木製だった。トイレは最初から水洗方式だったが、これを止めてタイル風呂にすべしという意見が出てきて「タイル風呂汲取派」と「木製風呂水洗派」に別れ、激しい論戦が繰り広げられた。中には「木製汲取代わりに乾燥室派」なぞもあらわれ、時局は混迷した。私は「木製水洗派」の中心であったが、「風呂なぞ無くとも良い」と口走った事が予想外の衝撃を与えたようなので、ここに一つ弁明をしておきたい。私は入浴の人生に果たす役割については、十二分に尊重しているつもりであるし、日本式の大浴槽も高く評価するのに吝かではない。従ってこれには最高のものを与えたい。それがいい加減なもので代用されるのは耐えられなかったのである。十分気に入るように作るには25万位予算がオーバーとなってしまう。せっかく木の風呂を下さる人があるのだから、今年はそれで我慢して、まず自分の排泄したものを衛生的に処理するのがよろしいという意味であったのだ。この一言でしばらく私は異常扱いされ、後日茅先生邸に招待された夕、美しき茅夫人の耳にまで届いていたのにはまったく弱った。

9月25日

 −野口建設社長上京、学士会館で食事、遂に375万円で第一期工事の契約になる。−
 収容人数25名、トイレ水洗、木製風呂、という内容で野口建設に見積もりを依頼、その内容が375万円となり社長の都合をみはからい、25日正式契約を行った。学士会館の食事は質量共不足ではあったが、この日のビールはまた格別の美味さであった(出席者:茅先生、工藤氏、小林、細井、植木)。

10月20日

 −紅葉美しき栂池高原に早朝到着、敷地はすでにブルドーザーで整地、基礎位置が示されていたが、どう間違ったのか、建物が90度時計方向に回転されていた。コンクリート打ち前で命拾いをした。−

11月3日

 −遠山、中尾と三人で検査に来たが、基礎コンクリートは正式に打ってあった。現場には色々お世話になっている日の丸山荘の若主人も見えた。−

11月15日

 −上棟式行う。小林氏、野口建設の職方数名で、東海大ヒュッテのストーブを囲み、スルメで乾杯、朝から降っている雪は小降りになり、空を見上げると折から顔を出した夕日を受けて真珠の様に青空を舞っている。−
 小林氏は柱が太く、梁は大きいので、すっかり喜んでいた。数年前の天神平の合宿以来、いかにスキー部員は酔うと強暴であるかを十分に体得させられている私としては、構造費を多少上げてもガンジョーに作るにかぎると思った次第。晩秋の栂池高原の青空に舞う粉雪を受ける骨組みだけのロッジは非常に魅力的であった。

11月29日

 −床ほぼ張り終わる。外壁が出来ないうちに雪が本降りとなってきた。不吉な雪である。大工さんの暖を取るタキ火が雪の中で消えてゆきそうである。−
 不吉な感は不幸にして当たった。この日から信州は前代未聞の早い大雪に見舞われた。委員は毎日天気図とニラメッコ。しかし西高東低は一向に変わらない。大町よりの情報は耳を塞ぐばかり。一階床はとっくに埋もれ、このままでは春まで中止という最悪の事態になった。我々としては手の打ち様なく、全員がテルテル坊主でも作って祈ることに相成った。

12月13日

 −さしものシベリア寒気団も十日でついにその勢いは弱まり、時間が見えたので、ブルドーザーで道をつけ、外壁張り、建具も一応入った。輸送部隊は中央高速道を駆って物資を続々と搬入。しかし今日からの合宿先発隊の苦労は常人の想像を絶するものがある。−
 悪夢の二週間が去り、栂池高原は再び青空を取り戻した。1.5メートルの新雪をブルドーザーは分け、大工が羽目板を張り、建具が付き、やっと家らしくなった。大量の蒲団が搬入されたが、設備面がほとんど未完成なので、とても人間のすみかとは言えない(恐れた如く、東海大のトイレを借りている)。遠山君ら先発隊は非常な努力を重ね、何とか住み良くしようと工夫を続けていた。

12月20日

 −ついに今シーズンの合宿が開始された。すべての面で不完全であるが、これ以上工事を続けにくいので、本年度はこの状態で仮使用する。−
 この一週間は職人が続々と出入りするが、足場の悪さもあってか、一向に進まない。一番大切な水洗トイレがうまくゆかず、一時は絶望の余り、外に小屋を建てる計画を立て、汲み取り式の穴を掘ったり、小屋の材料まで持ち込んだが、幸なことに使用しないですんだ。塗装は人間が住んでいるのでやりにくいし、トイレのアンギュレーションはコンクリート打ち直したりすると、またまた大量30名も東海大のトイレ拝借となるので、気の毒だから・・・等々の理由で春まで工事を中止することになった。バラック状のロッジで一冬過ごしてもらうという不幸なことになり、返す返すも12月上旬のバカ雪が憎らしくてならなかった。我々は栂池の冬に完敗して、仕方なく春を待つことになったが、あのナポレオンすら冬将軍に敗れたのだなぞと、とんでもない事を言ってお互いを慰めたのであった。

昭和46年5月××日

 −細井宅に集まり、最後のロッジ建設実行委員会を開く。本年度アルバイトも見込み、設備をより充実させることに決定、七月中に工事を終了することにし、ここにロッジ建設実行委員会は解散することになった。−
 バラック住まいも一シーズン再び春がやってきた。禍転じて福となす。昨年のやり残し工事は当然のこと、より設備の充実を計るため、アルバイト資金を当てることになり、懸案の大浴室も、ここにリッパに完成のはこびとなったのである。昨年に比較して今年は残務整理という気持ちが強いので、皆非常にリラックスした雰囲気で会議をすすめた。

10月16日

 −栂池高原にて竣工式行われる。ここに六年越しの努力遂に実る。−
 第一期工事はついに終了した。昨年末の殺人的忙しさからやっと開放された思いがする。しかしロッジはもともと40名ほど収容するものの一部を作ったに過ぎないので、今の利用状況をみていると、やがて手狭になり、増築しなければならないと思われる。その時点においては、乾燥室、スキー置き場、食堂の拡張等がなされる設計になっている。
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終わりに

 この稿を終わるに当たり、この一年間の活動をふり返ってみると、反省すべき点も多い。この計画が完成されたのは、茅先生をはじめ、外部の方々の援助があったからであるが、我々が若かったという点も大いにあずかっている。若き貧乏OB会の会員がよく百万円という大金を投じてくれたものと思う。又我々実行委員会の委員も若さにまかせて良く働いたものと思う。協力してくださった方々で名前をあげたい方は多いが、ここでは施工に当たった野口建設と、隣地にある東海大学のスキー部、及び地元の日の丸山荘には特にお世話になったので、ここに紙上を借りて、お礼を申し上げます。
 建築自体の問題について、若干記せば、この設計は非常に泥沼的であったと言ってよい。設計の狙いとしては最小の費用で必要なボリュームを作り出す事が絶対条件になり、将来の増築完了時点においても、かなり堅く、いかにも合宿所という感じの建物になってしまい、ロッジにもっとあってよいジャジーな雰囲気を作り出せなかった点は実に私の腕の至らぬところであり、もっともっと老獪にならなければプロと言えぬと思っている。又現場を進める上でも、資金の関係で、変更に次ぐ変更を野口建設に強いた点は、大いに反省すべきと思う。
 まああまり出来のよくない息子ではあるが、皆にかわいがってもらえれば、私としてはこれに勝る喜びはない。
(部誌より)

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